10「流刑者ヨハネ」

 「あなたがたの兄弟であり、共にイエスの苦難と御国と忍耐とにあずかっている、わたしヨハネは、神の言とイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた。」黙示録1:9
 上記の聖句は黙示録の記述している場所並びにその当時の環境を示している。本章の筆者ヨハネは我々の兄弟であり、我々と同じ患難にあずかっている人であった。すなわちいつの時代であっても、イエス・キリストにあって神を畏れつつ世を渡ろうとする者は、常に患難に遭遇しなければならないのである。かつてヨハネとその兄弟ヤコブはキリストが王位につかれた時には、その王国において一人はキリストの右、一人はその左に座る事を許して下さいと願った。しかし彼らの予期に反してキリストが王位に就かれる時の戴冠式は十字架であった。であるからキリストの御足の跡に従い、王国を継ぐ者になりたいと願う者は侮辱と苦難とを常に経験しなければならないのであった。しかしヨハネもこうした例にもれず、紀元94年頃ローマ皇帝ドミティアヌス帝による大迫害の結果、エーゲ海にあるパトモス島という絶海の孤島に流刑にされたのであった。この事実から推察すると、黙示録が与えられたのはおよそ紀元95,6年の頃と思われる。当時パトモス島はローマ政府の流刑地であり、そこに罪人は監禁もしくは苦役を強いられていたのであったが、この経験はヨハネにとって、より高い奉仕をするのに役立つものとなった。実に神の国へは単なる信仰上の告白や、いわゆる頭だけでの理解や、形式的奉仕や、難行苦行によっては入ることができない。我々は「わたしたちが神の国にはいるのには、多くの苦難を経なければならない」(使徒行伝14:22)のである。我々に与えられる多くの試練は、麦とその外皮とを分ける脱穀機、あるいは油や葡萄酒を作るのに用いる圧搾機のようなものであって、我々の心中より不純物を除きかつ品性を高潔にさせるものである。
 「もし耐え忍ぶなら、彼と共に支配者となるであろう」(第二テモテ2:12)。パウロは恵の支配する国を望んで進む者には、あらゆる患難は忍耐を生ずるものであると言っている。(ローマ5:3、8:23,25)そのようにヨハネはキリストを信じて聖なる愛に満たされていたので驚くべき忍耐の徳を養い、ついに各時代の教会にキリストの特別な黙示を伝える為に選ばれたのであった。実に火のような試練は我々にとって幸福な経験となり、喜びと変わり、また神の栄となるものである。しかしヨハネがこの勝利の生活を勝ち得た秘訣は、かつて彼が12使徒と共に居た時に、特にキリストと親密な交わりを結び、また聖霊の指導に従った事に起因するのである。我々も聖書を日毎の霊的な食物とし、熱心に祈り、また主のために働くことによってキリストとの深い交わりに入ることができるのである。
 ヨハネがこのパトモスの孤島に流刑の身にされたのは「神の言とイエスのあかしとのゆえに」であった。すなわち彼は神の言葉を述べ、また主イエスを証しするためには大帝国の皇帝の面前においてもひるむことなく忠実にその務めを果たしたのであった。実に迫害も死も神の道の火を消す事はできないだけでなく、かえって「殉教者の血は教会の種」となるのである。ジョン・バイヤンはベットフォードの獄舎につながれていた時、かの驚くべき「天路歴程」を書き残したではないか。地上のいかなる権力をもってしても、真理を圧迫することはできないのである。


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