45「真の悔い改めと白い衣」

 ここに神に帰る道が示されている。それは神がいかに我らを守られるかを覚え、真理を固く保ち、神の御心にかなう悔い改めをすることである。目を醒ましてこのようにしない者にとってキリストの再臨は盗人が来る時のように思える出来事となる。そして準備を怠る者は永遠の滅亡に陥るが、目を醒ましていた真のクリスチャンにとっては久しく待望してきた永遠の喜びの日となるのである。
 ここに悔い改めよとあるが、これは全的改心を意味したものであって、単に罪と絶縁するばかりでなく、罪に関する見解をも根本的に変えることを意味するのである。我等は本来の姿である自己に立ち返らなくてはならない。今まで愛着を感じてきた罪をかえって憎むようになり、心の中にキリストに対する愛が満ち溢れるまでにいたらなければならない。そしてまたこれと共に従来の誤った教義ならびに行為の変革をもたらさなければならないのである。このサルデス時代においても、当時の中途半端の改革に満足しないで、さらに改革の歩みを進め、その衣すなわち品性を汚さなかった者が数人あった。彼らは自己の信仰を固く保持し、また他人を助けて世に汚されることのない真の宗教経験をもっていた。(ヤコブ1:27参照)真の信仰はたとえ全世界がこぞって反対しても堅く立つところのものである。であるからもし彼らがこのように信仰に忠実であるならば、神はもしそれが二人、三人であっても、その残りの民を愛されるのである。そして神と共にあるときは少数とはいえ多数よりも強くあり得るのである。
 古代ローマにおいて、白い衣は、名誉、歓喜、および勝利の象徴であった。これは当時の高位顕官がまとったものであるが、また凱旋祝賀のような場合には全市民もこれをまとったので、ローマは「白い都」と化したということである。実にサルデス時代の数人および各時代の罪に汚されない勝利者は、この白い衣を着てキリストと共にパラダイスを歩むことを許されたのである。
 アダムとエバはエデンの楽園において栄光の衣を着て神と共に歩んだ。しかし罪の結果彼らは栄光の衣を失って醜い姿となり、その後全ての人類は醜い姿のままこの世に生まれるようになった。そして今日も依然としてぼろを身にまとっている者や、奇矯な容姿をしている者をしばしば見かけるのである。そして我らはこの世においても我らの不義とキリストの義とを交換することが出来ないのである。(ゼカリヤ書3:4,5参照)我等はキリストが礼服を与えられるまではそれを汚点なく保たなければならないのでるが、我らの贖いが成就される暁には、贖われた者にのみ与えられる純白の衣を着ることを許されるのである。(黙示録6:11,9、7章9−17、19:7−9参照)

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