105「審判の開始」


 一年に一回の聖所の清めの日はユダヤ人にとっては実に厳粛な日であった。この日について神は下記のように語られた。「特にその七月の十日は贖罪の日である。『あなたがたは聖会を開き、身を悩まし、主に火祭をささげなければならない。その日には、どのような仕事もしてはならない。これはあなたがたのために、あなたがたの神、主の前にあがないをなすべき贖罪の日だからである。すべてその日に身を悩まさない者は、民のうちから断たれるであろう。』」レビ記23:27〜29
 全てのユダヤ人は罪をことごとく告白したか否かを吟味しなければならなかった。そして誰でも不注意に時を過ごして祭司長が至聖所から出て来た時にまだ告白しない罪をもっている者があったならば、彼は神の民としての資格を失い、その民の中から断たれるのであった。であるから聖所は清めの日は各自が心を探り、省察すべき日であったばかりでなく、神の民と告白する者がその資格を有するか否かを調べられる日であったのである。であるから言い換えるのなら、聖所の清められる日は全てのユダヤ人にとっては調査審判の日であったのである。
 ユダヤの儀式に精通していたダニエルは、「そして聖所は清められ」との言葉がいかに重大な意義をもっていたかをよく知っていた。しかしながら2300の朝夕の後にどこの聖所が清められるのであろうか?ユダや人の聖所は紀元70年に全滅してしまってそれいらい再建されなかった。だから2300の朝夕が1844年に終わった時にはすでに1700年以上も地上には聖所がなかったわけである。そして下記の聖句によれば他に聖所がある事を発見するのである。
 「さて、初めの契約にも、礼拝についてのさまざまな規定と、地上の聖所とがあった。すなわち、まず幕屋が設けられ、その前の場所には燭台と机と供えのパンとが置かれていた。これが、聖所と呼ばれた。また第二の幕の後に、別の場所があり、それは至聖所と呼ばれた。・・・・これらのものが、以上のように整えられた上で、祭司たちは常に幕屋の前の場所にはいって礼拝をするのであるが、幕屋の奥には大祭司が年に一度だけはいるのであり、しかも自分自身と民とのあやまちのためにささげる血をたずさえないで行くことはない。・・・しかしキリストがすでに現れた祝福の大祭司としてこられたとき、手で造られず、この世界に属さない、さらに大きく、完全な幕屋をとおり、 かつ、やぎと子牛との血によらず、ご自身の血によって、一度だけ聖所にはいられ、それによって永遠のあがないを全うされたのである。もし、やぎや雄牛の血や雌牛の灰が、汚れた人たちの上にまきかけられて、肉体をきよめ聖別するとすれば、永遠の聖霊によって、ご自身を傷なき者として神にささげられたキリストの血は、なおさら、わたしたちの良心をきよめて死んだわざを取り除き、生ける神に仕える者としないであろうか。・・・そこで、もし彼が地上におられたなら、律法にしたがって供え物をささげる祭司たちが、現にいるのだから、彼は祭司ではあり得なかったであろう。彼らは、天にある聖所のひな型と影とに仕えている者にすぎない。それについては、モーセが幕屋を建てようとしたとき、御告げを受け、「山で示された型どおりに、注意してそのいっさいを作りなさい」と言われたのである。・・・このように、天にあるもののひな型は、これらのものできよめられる必要があるが、天にあるものは、これらより更にすぐれたいけにえで、きよめられねばならない。ところが、キリストは、ほんとうのものの模型にすぎない、手で造った聖所にはいらないで、上なる天にはいり、今やわたしたちのために神のみまえに出て下さったのである。 大祭司は、年ごとに、自分以外のものの血をたずさえて聖所にはいるが、キリストは、そのように、たびたびご自身をささげられるのではなかった。もしそうだとすれば、世の初めから、たびたび苦難を受けねばならなかったであろう。しかし事実、ご自身をいけにえとしてささげて罪を取り除くために、世の終りに、一度だけ現れたのである。」(ヘブル9:1〜3、6,7,11〜14、8:4,5,9:23〜26)

 以上のみ言により地上に建てられた聖所は天の聖所の型である事が明白である。また地上における奉仕の型であることも明らかである。しかし天の聖所は毎年一度ずつ清められるのではなく、世の終末に一度だけ清められるのみである。そうならば、「2300の朝夕の後に聖所は清められ」というのは天の聖所をさしていった事が明白ではないか。もしそうであるなら、1844年の半ばごろから天において、神の民と告白している者がはたしてその資格があるか否かを取り調べる審判、すなわち永遠の神の国に入り得る人を調査する審判が開始されているわけである。
 「わたしが見ていると、もろもろのみ座が設けられて、日の老いたる者が座しておられた。その衣は雪のように白く、頭の毛は混じりもののない羊の毛のようであった。そのみ座は火の炎であり、その車輪は燃える火であった。彼の前から、ひと筋の火の流れが出てきた。彼に仕える者は千々、彼の前にはべる者は万々、審判を行う者はその席に着き、かずかずの書き物が開かれた。わたしは、その角の語る大いなる言葉の声がするので見ていたが、わたしが見ている間にその獣は殺され、そのからだはそこなわれて、燃える火に投げ入れられた。・・・・彼に主権と光栄と国とを賜い、諸民、諸族、諸国語の者を彼に仕えさせた。その主権は永遠の主権であって、なくなることがなく、その国は滅びることがない。」ダニエル7:9〜11,14

 すなわちすでに160年以上も天において書が開かれ、日の老いた者すなわち神が審判を行われているのである。そして千々万々の御使は神の御前にはべってこれを助けつつあるのである。「人の子」キリストすなわち天の聖所における祭司長は、下記の聖句の示すように彼の名を信じる者のために弁護されているのである。「十の角はこの国から起る十人の王である。その後にまたひとりの王が起る。彼は先の者と異なり、かつ、その三人の王を倒す。彼は、いと高き者に敵して言葉を出し、かつ、いと高き者の聖徒を悩ます。彼はまた時と律法とを変えようと望む。聖徒はひと時と、ふた時と、半時の間、彼の手にわたされる。」ダニエル7:24、25
 天においてこの調査審判が開始された時、天の聖所の清められる時代に我等が生存している事と天の祭司長であるキリストのなされる働きに注意を促す使命が全世界に伝えられ始めた。そして時の満ちた時この使命宣伝者は現れたのである。この審判と神の国の来たる使命宣伝運動は最初にアメリカにおいて開始されたが、非常な速力をもって全世界に普及した。…今やこの使命は世界の津々浦々に宣伝されつつある。そしてこれはキリストが地上におられた時語られたことである。「そしてこの御国の福音は、すべての民に対してあかしをするために、全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである」(マタイ24:14)。
 祭司長および仲保者としてのキリストの働きは間もなく終了するであろう。ダニエルは言っている。「彼に主権と光栄と国とを賜い、諸民、諸族、諸国語の者を彼に仕えさせた。その主権は永遠の主権であって、なくなることがなく、その国は滅びることがない」(ダニエル7:14)。すなわち天の聖所において現在行われている働きは全ての人にとって生死にかかわる重大問題である。なぜならば調査審判の終結と共に、キリストは君の君となり、彼の永遠の王国は建てられ、我等各自は果たして神の国の一員となりえるか否かが永遠に決定されるのである。

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