「ほふられた小羊こそはふさわしい」
「ほふられた小羊こそは、力と、富と、知恵と、勢いと、ほまれと、栄光と、さんびとを受けるにふさわしい。」(黙示録5:12)
わたしたちは神の愛を受けるにふさわしくない。しかしわたしたちの保証人であるキリストはそれにふさわしく、また彼に来るすべての者を豊かに救うことがおできになるのである。(祝福の山10)
キリストはサタンが堕落させて彼の働きに用いた、みたところ見込みのない人材を用いて、ご自分の恵みの臣民にすることをお喜びになる。このお方は、彼らを苦しみと不従順な者にくだる怒りから救い出すことをお喜びになる。(教会への証6巻308,309)
もし、敵が、失望した者の目をイエスからそらして自分たちをながめさせ、彼らに、イエスの尊さ、イエスの愛、イエスの功績、イエスの大きなあわれみなどを考えるかわりに、自分たちの無価値なことを考えさせることができるならば、彼は、彼らから信仰のたてを奪い去って、自分の目的を達成することができる。人々は、敵の火のような攻撃にさらされる。であるから、弱い者は、イエスを仰いで、イエスを信じなければならない。その時、彼らは信仰を働かせるのである。(初代文集153)
神のみ子は、すべてのものを―いのちと愛と苦しみとを―私どもをあがなうためにお与えになりました。こうした大きな愛の対象としてはあまりに無価値な私どもが、自分の心を神にささげないでいられるでしょうか。私どもは、生涯の一瞬一瞬、キリストの恵みをこうむって生きてきました。私どもは、どのような無知と悲惨のどん底から救われたかを自覚していないのです。(キリストへの道57)
多くの者は、自分の感情に注意を留め、そうして自分たちの前進や退却を決めることによって、彼らの宗教生活において重大な過ちを犯すのである。感情は安全な基準ではない。わたしたちは、わたしたちが神に受け入れられている証拠を自分自身の内に探そうとすべきではない。自分自身の内には落胆させることしかない。わたしたちの唯一の望みは「信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見」ることにある(ヘブル12:2)。このお方の内には望みと信仰と勇気によって奮い立たせてくれるものがすべてある。このお方はわたしたちの義、わたしたちの慰めであり喜びである。……
わたしたちの弱さと無価値さの自覚は、心のへりくだりをもってキリストの贖いの犠牲を嘆願するようにわたしたちを導くべきである。わたしたちがこのお方の功績に頼る時、わたしたちは休みと平安と喜びを見いだす。このお方はご自分によって神に来る人々を、完全に救うことがおできるになるのである。(教会への証5巻199,200)
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