165「フランスとトルコの戦争」


 しかしこの時にあたりナポレオンの形勢は危険になってきた。それは彼が本国との間に唯一の交通機関と頼んでいたフランス国艦隊が、アブーキル湾において英将ネルソンのために撃破されたからである。またトルコの君主はフランスに対して猜疑の念をいだき、またコンスタンチノーブル駐在の英国大使の煽動により、長い間オットマン帝国の反属国であったエジプトがフランス領となったことを怒り、同年すなわち1798年9月4日ついにフランスに対して宣戦布告した。このようにして「北の王」トルコは、「南の王」エジプトが「角でつい」たと同じ年に、「これ」フランスに対して非常な勢いで来た。しかもこれはどちらも「終わりの時」に起こったのであるから、1798年が「終わりの時」の始まりであることはこの方面からも立証することができる。そしてこれらの全てはこの預言の解説が正しい事を裏書きするものである。なぜならばこのような多くの事件がこのように正確にことごとく預言の示すとおりに成就したことは、決して偶然ではないからである。
 さて、「北の王」の来襲はエジプトが「押し」たのに比較して「大風のよう」であったであろうか。ナポレオンはエジプト軍を蹂躙した勢いをもって、アジア方面より来襲しようとしたトルコ軍をも同様に取り扱おうと試みた。すなわち彼は1799年2月27日1万8千の兵を率い、カイロを出発してシリヤ方面にその軍をすすめた。最初に彼は荒野にあるエル・アリシユの要塞を陥れ、次にヤツフア(ヨッパ)を占領し、ゼタのナプロアスを陥れまたヤフエトをも敗った。
 一方トルコの精鋭なる一隊はセント・ジャン・ダーカーに塹壕を築き、トルコの大軍はサマリヤの山地に屯集して、フランス軍がダーカーに来襲すれば一挙に撃退しようとしていた。同時に英将シドニースミスは艦隊を率いてセント・ジャン・ダーカーに現われ、トルコ軍を応援し、ナポレオンがアレキサンドリヤより送付する軍器を捕獲してしまった。まもなくトルコの艦隊も現れまた英露の艦隊もこれに加わって活動した。このようにして北の国のために「なお多くの船」が活動したのである。



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