166「セント・ジャン・ダーカーの総攻撃」

 セント・ジャン・ダーカーの包囲攻撃は3月18日より開始された。「ナポレオンが10日間ほとんど間断なくジャン・ダーカーを攻撃した時、トルコの大部隊が近づいたことがわかった。その大軍は三万におよび中一万二千は最も残忍にまた世界中で最も訓練を受けた騎兵であった。ナポレオンは僅か八千の兵をもって、ジャン・ダーカーの城壁内にあるヨーロッパおよびトルコの精鋭なる軍隊ならびに多くの援軍と会戦した。・・・一万二千の騎兵が実に美しく軍隊式に装飾して駿馬アラビヤ駒にまたがり、各方面に騰躍していた。そして敵軍が平原に現われるや否や、トルコ軍の間には歓呼の鯨波(大波)があたかも大海の怒涛のように鳴り響いた。・・・騎兵の大軍は軍刀をひらめかし、恐ろしい鯨波をあげ、さながら大風のように敵軍に猛襲した。フランス軍においては各人の生命の安全は動かないでいる事にあるを知り、方陣を作って岩のようになっていた。」(“The life of Napoleon Bonaparte”John S.C.Abbort,Vol.1,chap.12,PP.217,218-229.)
 必死の包囲攻撃が60日間続いた。セント・ジャン・ダーカーにおける血戦の惨状は到底筆舌に尽くしがたい。毎日毎夜毎週全くの間断なく奮戦したので死屍山を築いた。フランス軍の旗色は刻一刻と怪しくなって、士気も衰えてきた。ついに「今は勝利の見込みがなくなってきた。ナポレオンは遺憾ながら包囲を解く準備をした。」(Id,chap.13,p.224)そして「先ず軍用行李、傷病兵および野戦砲を静かに後部に退かし、巨砲はこれを土中に埋め、5月20日ナポレオンは彼の生涯において最初の退去命令を発した。」(“History of Europe”Sir Archibald Alison, vol.3,chap.25,P.484.)
 「もし余(ナポレオン)が勝利を得るなら、市(ジャン・ダーカー)においてトルコ総督の財産および30万人の武器を発見するであろう。余は勧めて全シリヤを武装せしめる。…余は大軍を率いてコンスタンチノーブルに入り、トルコ帝国を転覆する。余は東方において新たなる大帝国を発見した。これは子子孫孫まで継続するであろう」とは、ナポレオンの豪語したところであったけれども、セント・ジャン・ダーカーにおける惨敗によってこれは一片の空想と化し、彼は脆くもエジプトに引き上げ、さらに故国フランスに退却しなければならない悲運の身となった。

http://www.sda1888.com/
聖書のお話ブログ BIBLE STORY BLOG
http://dailydevotion.jugem.jp/?eid=126



 ブログ村ランキングに参加しております。
もしよろしかったら、クリックお願いいたします。

 ↓↓↓  

にほんブログ村 哲学・思想ブログ プロテスタントへ
にほんブログ村