169「フランス軍の惨敗」


 「彼は国々にその手を伸ばし、エジプトの地も免れません。」ダニエル11:42

 フランス軍がエジプトに退去するや、トルコの艦隊は一万八千の兵をアブーキルに上陸させた。ここにおいてナポレオンは直ちに攻撃を開始しトルコ軍を打ち破り、再びエジプトにおける彼の権力を回復した。
 この時にあたって英国はオーストリア、ロシア、ポルトガル、トルコ等と互いに相結んで対フランス大同盟を作り、大いに同国を威嚇したのである。ここにおいてフランス人は権威を感じることはなはだしく、民心動揺して寧日(平穏無事な日)なき有様となった。エジプトにあってはるかに本国におけるこの形勢を感知したナポレオンは、ただちにパリに帰着して(紀元1799年8月22日)、内政上に彼一流の大改革を断行し、大いに民心の安定をはかった。
 一方彼はエジプトを去るに臨んで後事一切をクレバー将軍に一任した。同将軍は善戦し活躍したが、惜しむべし、カイロにおいて一トルコ人のために暗殺されてしまった。これに次いで司令官となったのが、アブダラーメヌー将軍であったが、この時すでにフランス軍は多大の損害をこうむっていたのである。
 さて、この間英軍はアプーキル湾に上陸し、(紀元1801年3月8日)、その将アバークロンビィはフランス軍と戦って、大勝を博したが、(同月21日)、この役において同将軍は最後の勝利を得る間際にいたって戦死した。この後をついで立ったヘンリー・ハッチンソン将軍は相次いでフランス軍を破り、同年7月にはカイロ、同8月にはアレキサンドリヤを攻略するに到り、フランス軍の残兵は船賃無料で本国に送還されるという有様であった。そしてこの戦役後まもなくロンドンにおいて両国は平和条約を締結するにいたった。
 「エジプトの地も免れません」とは預言者の言葉であった。この言葉はエジプトが免れたいと思う国の支配を受けなければならぬことを言ったもののようである。エジプトはフランスとトルコの中はたしていずれの属国になることを希望したのであろうか。彼らはむしろフランス国の統治を喜んでいた。1824年より同27年までエジプト、ナビヤ、トルコおよびパレスチナを旅行したアール・アール・マデンス氏の旅行記によれば(1829年ロンドンにおいて出版)、エジプト人はフランスの敗北を非常に惜しんだということである。その理由は、彼等が統治したのは僅かの期間であったが、善政を残したからというのである。もし、その時からフランス国がエジプトを統治していたなら、エジプトは今日もっと文化の恩恵に浴していたに相違ない。以上の証言によれば、エジプトはトルコの統治を免れたいと希望したのであるが、免れえなかったことをいうのである。

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