134「神の奥義とは何か」

 「第七の御使が吹き鳴らすラッパの音がする時には、神がその僕、預言者たちにお告げになったとおり、神の奥義は成就される。」(黙示録10:7)
 「第七の御使が吹き鳴らすラッパの音がする時には(days)」この第七のラッパは第一コリント15章52節にあるところの眠れる死人を呼び覚ます終わりのラッパではなく、連続的な七つのラッパ中の第七のものであり、他のラッパと等しく数日(すなわち数年)間吹き鳴らされるものである。このラッパの鳴りはじめた期間中に神の奥義が成就するのである。
 第七のラッパの開始―第七のラッパの鳴り響く時に起こる出来事より推して、その開始は預言的時期の終局である1844年であることが確かめられる。そうであるのなら、それより時を経ずに神の奥義は成就されるはずである。いかなる内容のものかは分からぬが大事件、実に緊急かつ、重大な事件が我々の目前に横たわっているのである。そもそも、どんな方面のものであれ、神の御事業を成就するということには非常な重大さが伴うものであり、その間は常に厳粛かつ重大な時期なのである。たとえば、救い主イエスが十字架上で息絶えんとする際、「すべてが終った」と叫ばれたように、また背ける人類に対するあわれみの大事業が完成する時にも、全地をふるい動かすほどの雷のような御声が神の御座から出て、「事はすでに成った」と重々しく叫ぶんである。であるから皆、この事件が私たちの救いと希望の上にどんな関係があるのか、神の奥義とは何であるか、その奥義の成就とは果たして何を意味するのかを憂慮懸念せざるをえないのである。
 「神の奥義」―この奥義が何かについては、我々の足の灯火である聖書の中に端的にこれを表現している所があるから、それをここに記録する。「御旨の奥義を、自らあらかじめ定められた計画に従って、わたしたちに示して下さったのである。それは、時の満ちるに及んで実現されるご計画にほかならない。それによって、神は天にあるもの地にあるものを、ことごとく、キリストにあって一つに帰せしめようとされたのである」(エペソ1:9,10)。すなわちここに万物をキリストに帰せしめようとの神の御旨が「御旨の奥義」と言われているのである。これは福音によって成就するものであり、エペソ6:19には「また、わたしが口を開くときに語るべき言葉を賜わり、大胆に福音の奥義を明らかに示しうるように・・」と、福音の奥義が何かを明言しているのである。またコロサイ4:3にはキリストの奥義と呼ばれており、エペソ3:3,6には「・・・わたしは啓示によって奥義を知らされたのである。・・・それは、異邦人が、福音によりキリスト・イエスにあって、わたしたちと共に神の国をつぐ者となり、共に一つのからだとなり、共に約束にあずかる者となることである」とある。ここにパウロは奥義が黙示によって彼にしめされた通りであるといっているが、それはガラテヤ書のことをさすもので、そこには「黙示」により、彼にいかなる事が示されたかについて次のように記してある。「兄弟たちよ。あなたがたに、はっきり言っておく。わたしが宣べ伝えた福音は人間によるものではない。わたしは、それを人間から受けたのでも教えられたのでもなく、ただイエス・キリストの啓示によったのである」(ガラテヤ1:11,12) 。すなわち彼は黙示によって奥義が示されたと言っているが、このエペソ書は紀元64年に記され、ガラテヤ書の方は同58年に記されたものである。

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