「聖霊の力を吹き込まれて」


 「ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレムユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう。」(使徒行伝1:8)


 聖霊の働きのうちに、み言葉を説くのがわたしたちの特権であり、主イエス・キリストを信じる信仰を働かせることがすべての魂の特権である。しかし、純粋な霊的生涯は、和解させてくださる救い主キリストを通して、魂が自らを神の御旨に屈服させるときに初めてもたらされる。聖霊に働いていただくのがわたしたちの特権である。信仰を働かせることによって、わたしたちはキリスト・イエスとの交わりのうちに入れられるのである。なぜなら、キリストが柔和でへりくだったすべての人の心のうちに宿られるからである。彼らの信仰は、愛によって働き魂を清める信仰、心に平安をもたらす信仰であって、自己否定と自己犠牲の道へと導く。
 もしわたしたちが主を切に知ることを求めるならば、わたしたちは「主はあしたの光のように必ず現れいで」ることを知るのである。わたしたちが毎日心の中に神の改心させる恵みを持っているということが重要不可欠である。それはわたしたちのすべての言葉と行いが、わたしたちに神の思いと御旨とに従っているという証拠を与えるためである。柔和とへりくだりのうちにわたしたちに定められた奉仕を行うことによって、わたしたちは自分たちの生活に聖霊の改心させる御力を表すのである。そのとき、わたしたちは主のみ働きをなすこのお方の代理人となる。
 へりくだりと謙遜をもちながら、なお熱烈な熱心さをもってわたしたちは神に自分たちの奉仕をお捧げしなければならない。キリストがわたしたちの型であられ、万事につけわたしたちの模範であられる。このお方は聖霊に満たされていた。そして、聖霊の力がこのお方を通して、身体的な動きによってではなく、良い働きのための熱心さによって表されたのであった。
 神の民の間では、深く徹底的な心の吟味が必要とされている。それは、何が真の宗教を構成しているかをわたしたちが理解できるためである。キリストはすばらしい教育者であられる。このお方の生涯と言葉は健全な原則に基づいている。このお方がお教えになった方法は、実に単純であった。このお方は神に似た姿に形造られた。そしてもしわたしたちがこのお方に従うならば、わたしたちは間違いを犯すことはないのである。……
 わたしたちの生涯は神のうちにキリストと共に隠されなければならない。わたしたちはキリストの個人的な知識を持たなければならない。その時初めて、わたしたちは世の前でこのお方を正しく代表することができるのである。わたしたちはどこにいても、良い働きのうちに神の栄光へとわたしたちの光を輝かさなければならない。これがわたしたちの生涯における重大かつ重要な働きである。本当に聖霊の感化力の下にいる人々は真理の永遠の原則を実際に適用することによってその力を表す。彼らは聖油が二本のオリブの枝から魂の宮の部屋へと流れ出ていることを表すのである。彼らの言葉は聖霊の力が吹き込まれて、心を和らげ鎮める。語られた言葉が霊であり、命であることが明らかとなるのである。(手紙352, 1908年)

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