2011年10月15日 説教 「ユダ(賛美)」


 ユダはレアの四人目の子供でした。彼女がこの子を産んだ時どのように言いましたか?

 創29:35「彼女はまた、みごもって子を産み、『わたしは今、主をほめたたえる』と言って名をユダと名づけた。そこで彼女の、子を産むことはやんだ。」

 ユダの名は「褒め称える」「賛美」という意味でした。素晴らしい名前です。ユダは主を褒め称えるものとなったのでしょうか?
 歴代上5:2 「またユダは兄弟たちにまさる者となり、その中から君たる者がでたが長子の権はヨセフのものとなったのである。」

 ユダはどのようにして他の兄弟たちよりもまさった者でありえたのでしょうか?これはわたしたち霊的な家督権を望むすべての人々が熱心に研究する主題ではないでしょうか?ユダが腕力において他の兄弟に勝っていたのでしょうか?そのような記録を聖書の中にみつけることはできません。しかし、ヤコブの12人の兄弟の生涯を注意深く研究してみると、家族の中でユダはリーダーシップをもっていたことがわかります。以前ルベンの研究の時に学びましたが、エジプトにベニヤミンを連れて行かなければならなかったとき、ヤコブはルベンの軽薄な言葉を信じず、ユダの言葉に父が説得されました。
  
 ヤコブの息子たちがベニヤミンを連れてエジプトで食糧を買った後、ベニヤミンの持っていた食糧の袋の中に銀の器が見つかってしまいました。そしてベニヤミンが奴隷とならなければならないと言われた時、だれがベニヤミンの代わりに自分を奴隷にしてほしいと頼みましたか?ユダでした。

 創44:14〜34 「ユダと兄弟たちとは、ヨセフの家にはいったが、ヨセフがなおそこにいたので、彼らはその前で地にひれ伏した。ヨセフは彼らに言った、「あなたがたのこのしわざは何事ですか。わたしのような人は、必ず占い当てることを知らないのですか」。ユダは言った、「われわれはわが主に何を言い、何を述べ得ましょう。どうしてわれわれは身の潔白をあらわし得ましょう。神がしもべらの罪をあばかれました。われわれと、杯を持っていた者とは共にわが主の奴隷となりましょう」。ヨセフは言った、「わたしは決してそのようなことはしない。杯を持っている者だけがわたしの奴隷とならなければならない。ほかの者は安全に父のもとへ上って行きなさい」。この時ユダは彼に近づいて言った、「ああ、わが主よ、どうぞわが主の耳にひとこと言わせてください。しもべをおこらないでください。あなたはパロのようなかたです。わが主はしもべらに尋ねて、『父があるか、また弟があるか』と言われたので、われわれはわが主に言いました、『われわれには老齢の父があり、また年寄り子の弟があります。その兄は死んで、同じ母の子で残っているのは、ただこれだけですから父はこれを愛しています』。その時あなたはしもべらに言われました、『その者をわたしの所へ連れてきなさい。わたしはこの目で彼を見よう』。われわれはわが主に言いました。『その子供は父を離れることができません。もし父を離れたら父は死ぬでしょう』。しかし、あなたはしもべらに言われました、『末の弟が一緒に下ってこなければ、おまえたちは再びわたしの顔を見ることはできない』。それであなたのしもべである父のもとに上って、わが主の言葉を彼に告げました。ところで、父が『おまえたちは再び行って、われわれのために少しの食糧を買ってくるように』と言ったので、われわれは言いました、『われわれは下って行けません。もし末の弟が一緒であれば行きましょう。末の弟が一緒でなければ、あの人の顔を見ることができません』。あなたのしもべである父は言いました、『おまえたちの知っているとおり、妻はわたしにふたりの子を産んだ。ひとりは外へ出たが、きっと裂き殺されたのだと思う。わたしは今になっても彼を見ない。もしおまえたちがこの子をもわたしから取って行って、彼が災に会えば、おまえたちは、しらがのわたしを悲しんで陰府に下らせるであろう』。わたしがあなたのしもべである父のもとに帰って行くとき、もしこの子供が一緒にいなかったら、どうなるでしょう。父の魂は子供の魂に結ばれているのです。この子供がわれわれと一緒にいないのを見たら、父は死ぬでしょう。そうすればしもべらは、あなたのしもべであるしらがの父を悲しんで陰府に下らせることになるでしょう。しもべは父にこの子供の身を請け合って『もしわたしがこの子をあなたのもとに連れ帰らなかったら、わたしは父に対して永久に罪を負いましょう』と言ったのです。どうか、しもべをこの子供の代りに、わが主の奴隷としてとどまらせ、この子供を兄弟たちと一緒に上り行かせてください、この子供を連れずに、どうしてわたしは父のもとに上り行くことができましょう。父が災に会うのを見るに忍びません」。

 この時ユダがヨセフと交渉し、ベニヤミンの代わりに自分が奴隷になると申し出たのでした。この一連の出来事を見ると、ユダは家族の中でリーダーとして活躍していたことがわかります。

ヤコブとその家族がエジプトのヨセフに会いに行ったときもそうでした。ヤコブはだれをヨセフにつかわしたのでしょうか?

創世記46:28,29「さてヤコブはユダをさきにヨセフにつかわして、ゴセンで会おうと言わせた。そして彼らはゴセンの地へ行った。 ヨセフは車を整えて、父イスラエルを迎えるためにゴセンに上り、父に会い、そのくびを抱き、くびをかかえて久しく泣いた。」

 一連の出来事からユダはその誠実さゆえに彼の父やその兄弟からの信頼を得ていたことがわかります。年老いた彼の父が死を前にして祝福の言葉を話した時、どのような言葉が語られたかをみてみましょう。

 創世記49:8〜10「ユダよ、兄弟たちはあなたをほめる。あなたの手は敵のくびを押え、父の子らはあなたの前に身をかがめるであろう。ユダは、ししの子。わが子よ、あなたは獲物をもって上って来る。彼は雄じしのようにうずくまり、雌じしのように身を伏せる。だれがこれを起すことができよう。つえはユダを離れず、立法者のつえはその足の間を離れることなく、シロの来る時までに及ぶであろう。もろもろの民は彼に従う。ユダよ、兄弟たちはあなたをほめる。あなたの手は敵のくびを押え、父の子らはあなたの前に身をかがめるであろう。」

 ヨセフが子供のとき夢を見ました。どんな夢でしたか?兄弟たちの束が自分の束の周りにきて拝んだというものでした。
またもう一つの夢は日と月と11の星が自分を拝んだというものでした。そしてこの夢は現実のものとなりました。

 彼の兄弟たちはヨセフの前に身をかがめましたが、ヤコブの祝福ではユダが他の兄弟たちに身をかがめられるというものでした。ヨセフは外国の地で富と地位を得、皆から身をかがめられましたが、ユダは毎日の家庭生活において彼の兄弟たちからの尊敬を得て、兄弟たちからほめたたえられたのでした。この信頼は一瞬で生まれたものではなく、日々の厳格な誠実さゆえのものでした。

 ルベンとユダは同じ環境の下に育ったということは注目に値することではないでしょうか。ルベンを長子の特権から除外したのはどんな罪でしたか?家庭生活において、彼はその偽りを証明したのでした。「イスラエルの長子ルベンの子らは次のとおりである。ルベンは長子であったが父の床を汚したので、長子の権はイスラエルの子ヨセフの子らに与えられた。それで長子の権による系図にしるされていない。」歴代上5:1

 ですからルベンは家族の中で全く尊敬されませんでした。しかしユダは同じ環境と誘惑に囲まれの中で、兄弟たちにまさる者となったのでした。

 14万4千のうちの1万2千はユダ部族の名のもとに聖なる都に入ります。彼らの品性の特徴はどのようなものでしょうか?彼らは難局の時、その兄弟たちにリーダーとして認められてきた人たちです。

 創49:9「ユダは、ししの子。わが子よ、あなたは獲物をもって上って来る。彼は雄じしのようにうずくまり、雌じしのように身を伏せる。だれがこれを起すことができよう。」

 この御言葉からヤコブはユダの品性の特徴を獅子のような権威をもった征服者として示しています。獅子は堂々としています。そして獲物を取る時に獲物に向かって突進していきます。しかし、最初からこのようにできるのではありません。ししの子は訓練を受け獲物を倒すたびに立派になっていきます。それと同じように、レビのような品性を備えた人々も信仰の戦いを積み重ねるたびに、「栄光から栄光へと」ユダ族から出た獅子、主イエスと同じ姿に変えられていくのです。彼らは信仰の戦いを立派に戦い抜く人々です。

マタイ7:24,25「それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけても、倒れることはない。岩を土台としているからである。」

 ユダ族の特徴がここに書かれています。彼らの堅固さというものはキリストいう岩の上に建てることによって成り立っています。真の成功はどんな嵐の時にもキリストに頼ることにあるということを知り、実行するのがユダ族の特徴です。

 シナイにおいて戦争に行ける20歳以上の男子の数を数えた時、ユダ族は74600人でした。シメオン部族はは59300人でした。しかしシッテムにおける背教の結果、結局22200人になってしまいました。それに対してユダ部族はカナンに入る前に数えた時76500人なっていたのでした。
 
 ユダは独立した部族でした。サウル王の死後彼らはダビデが王としてイスラエル全国の王となる7年半前、ユダの王としてユダ部族を治めたのでした。

 サムエル下2:4〜11「 時にユダの人々がきて、その所でダビデに油を注ぎ、ユダの家の王とした。人々がダビデに告げて、「サウルを葬ったのはヤベシ・ギレアデの人々である」と言ったので、ダビデは使者をヤベシ・ギレアデの人々につかわして彼らに言った、「あなたがたは、主君サウルにこの忠誠をあらわして彼を葬った。どうぞ主があなたがたを祝福されるように。どうぞ主がいまあなたがたに、いつくしみと真実を示されるように。あなたがたが、この事をしたので、わたしもまたあなたがたに好意を示すであろう。今あなたがたは手を強くし、雄々しくあれ。あなたがたの主君サウルは死に、ユダの家がわたしに油を注いで、彼らの王としたからである」。さてサウルの軍の長、ネルの子アブネルは、さきにサウルの子イシボセテを取り、マハナイムに連れて渡り、彼をギレアデ、アシュルびと、エズレル、エフライム、ベニヤミンおよび全イスラエルの王とした。サウルの子イシボセテはイスラエルの王となった時、四十歳であって、二年の間、世を治めたが、ユダの家はダビデに従った。ダビデヘブロンにいてユダの家の王であった日数は七年と六か月であった。」

 ユダ族といえば私はカレブを想い出します。カレブは他の斥候たちと共にカナンの地を探りに行っていきました。彼らはモーセにどんな報告をしましたか?

民13:25〜29「四十日の後、彼らはその地を探り終って帰ってきた。そして、パランの荒野にあるカデシにいたモーセとアロン、およびイスラエルの人々の全会衆のもとに行って、彼らと全会衆とに復命し、その地のくだものを彼らに見せた。彼らはモーセに言った、「わたしたちはあなたが、つかわした地へ行きました。そこはまことに乳と蜜の流れている地です。これはそのくだものです。しかし、その地に住む民は強く、その町々は堅固で非常に大きく、わたしたちはそこにアナクの子孫がいるのを見ました。またネゲブの地には、アマレクびとが住み、山地にはヘテびと、エブスびと、アモリびとが住み、海べとヨルダンの岸べには、カナンびとが住んでいます。」

 彼等はカナンの地がどんなに素晴らしい所かを報告しました。しかしそれだけではありませんでした。その土地にどんな強い人々が住んでいるのかを報告したのでした。そして彼らはその報告と共にその土地を自分たちのものとすることに対してどのような結論を下していましたか?

 民13:31〜33「しかし、彼とともにのぼって行った人々は言った、『わたしたちはその民のところへ攻めのぼることはできません。彼らはわたしたちよりも強いからです。』 そして彼らはその探った地のことを、イスラエルの人々に悪く言いふらして言った、『わたしたちが行き巡って探った地は、そこに住む者を滅ぼす地です。またその所でわたしたちが見た民はみな背の高い人々です。 わたしたちはまたそこで、ネピリムから出たアナクの子孫ネピリムを見ました。わたしたちには自分が、いなごのように思われ、また彼らにも、そう見えたに違いありません。』

これが彼らの結論でした。「とてもこのような強い人々と戦うことはできない。ネピリムの子孫がいる。彼らには自分たちがいなごのように見えたに違いない。」と語りました。

しかしこの斥候たちの中でカレブはどのように言いましたか。

民13:30 「そのとき、カレブはモーセの前で、民をしずめて言った、「わたしたちはすぐにのぼって、攻め取りましょう。わたしたちは必ず勝つことができます」。

 これがカレブの言葉でした。わたしたちの状況も同じではないでしょうか?わたしたちの前には困難が見えます。巨人がいるように見えるかもしれません。わたしたちもイナゴのような小さな存在、なんの力もないような弱い教会にみえるかもしれません。しかし、今カレブのように信仰を働かせなければなりません。

 「わたしたちは必ず勝つことができます。」「わたしたちの教会は必ず勝利します。」とわたしたちは信仰を持って言わなければなりません。

 これはわたしたちの教会のこれからの歩みだけではなく、個人的な信仰の歩みにおいても同じです。「わたしたちは必ず主の力によって勝つことができます。」と言って、前進し、勝利の経験をしなければならないのです。

 この時の事件はわたしたちの教訓とすべきものです。

 「彼らは、自分たちの不信仰によって、神の力を制限し、ここまで彼らを安全に導かれた手にたよらなかった。そして、彼らはまた、モーセとアロンに対してつぶやくという彼らの以前のあやまちをくり返した。「これでわたしたちの大きな望みは、みな消えてしまった。ここは、わたしたちが、わざわざエジプトから占領するためにやって来た地なのだ」と彼らは言った。彼らは、指導者が人々を欺き、イスラエルの民を苦難に陥れていると非難した。」PP上466

 彼らはまた何を繰り返しましたか?神の導きに対しての不信仰です。また指導者にたいするつぶやきでした。同じことを繰り返してきたにもかかわらず、彼らは学習していませんでした。

 「1度誤った道にふみ込んだこの人々は、頑強にカレブとヨシュアに敵対し、モーセに敵対し、そして神に敵対したのである。前進しようとするごとに、彼らはいよいよ心をかたくなにした。カナンを占領しようとする試みは、みな阻止しようと彼らは決心した。彼らは、自分たちの与えた悪影響をいかにもまことらしくするために、真実を曲げたのである。そこは、「そこに住む者を滅ぼす地です」と彼らは言った(同・13:32)。これは、悪い報告であるばかりでなく、いつわりの報告である。これは、つじつまが合わないことである。斥候たちは、その国が実り豊かで栄えたところであると言い、人々は大きいと言った。もしも、気候が不順で「住む者を滅ぼす地」であるとするならば、以上のことはみなあり得ないことである。しかし、人が1度不信を心にいだいてしまうならば、彼らは、サタンの支配に身を委ねたのであって、どこまでサタンにひかれていくかわからないのである。」同上467p

 彼等は自分たちが占領することもできない土地に導かれたのだと言いました。そして自分たちで指導者を選んでエジプトに帰ろうとまで言い出したのでした。モーセとアロンはこれを聞いてどのようにしましたか?


 「恥と苦悩に心を痛めて、「モーセとアロンはイスラエルの人々の全会衆の前でひれふした」(同・14:5)。彼らは、人々のこうした無分別な激しい考えをどうして思いとどまらせたらよいかわからなかった。カレブとヨシュアは、騒動を静めようと試みた。・・・」同上468p

 もし斥候の中で10人が信仰をもってカナンに攻めのぼろうと言い、2人がそれに反対したとしても、彼らは10人の意見に聞き従わなかったのです。彼らはカレブとヨシュアを石で撃ち殺そうとしました。

 10人の斥候は疫病にかかり死にました。そして『荒野で死んでいたらよかったのに』と言ったすべての人々の願いが神によってかなえられることになったのでした。

 荒野に戻ることになった彼らは今度は行ってはいけないと言われた命令を無視して、カナンに攻めていこうとしました。これが神に頼らない、不信仰な人々の本性です。

 私たちはカレブとヨシュアのように神の御力に完全にたより、信仰を働かせて前進するものとならなければなりません。

 カレブがこのような信仰を表したのは彼が40歳の時でした。しかしこの強い信仰は彼が85歳の時にも決して変わることはなかったのでした。

ヨシュア14:6〜15「 時に、ユダの人々がギルガルのヨシュアの所にきて、ケニズびとエフンネの子カレブが、ヨシュアに言った、「主がカデシ・バルネアで、あなたとわたしとについて、神の人モーセに言われたことを、あなたはごぞんじです。主のしもべモーセが、この地を探るために、わたしをカデシ・バルネアからつかわした時、わたしは四十歳でした。そしてわたしは、自分の信ずるところを復命しました。しかし、共に上って行った兄弟たちは、民の心をくじいてしまいましたが、わたしは全くわが神、主に従いました。その日モーセは誓って、言いました、『おまえの足で踏んだ地は、かならず長くおまえと子孫との嗣業となるであろう。おまえが全くわが神、主に従ったからである』。主がこの言葉をモーセに語られた時からこのかた、イスラエルが荒野に歩んだ四十五年の間、主は言われたように、わたしを生きながらえさせてくださいました。わたしは今日すでに八十五歳ですが、今もなお、モーセがわたしをつかわした日のように、健やかです。わたしの今の力は、あの時の力に劣らず、どんな働きにも、戦いにも堪えることができます。それで主があの日語られたこの山地を、どうか今、わたしにください。あの日あなたも聞いたように、そこにはアナキびとがいて、その町々は大きく堅固です。しかし、主がわたしと共におられて、わたしはついには、主が言われたように、彼らを追い払うことができるでしょう」。そこでヨシュアはエフンネの子カレブを祝福し、ヘブロンを彼に与えて嗣業とさせた。こうしてヘブロンは、ケニズびとエフンネの子カレブの嗣業となって、今日に至っている。彼が全くイスラエルの神、主に従ったからである。ヘブロンの名は、もとはキリアテ・アルバといった。アルバは、アナキびとのうちの、最も大いなる人であった。こうしてこの地に戦争はやんだ。」

 わたしたちも彼のような堅固な信仰を持てるよう神に祈らなければなりません。

 ユダ族の代表、イエスの典型としてダビデほどふさわしい者はいないでしょう。彼も宮廷で多くの誘惑に囲まれ罪も犯しましたが、真に悔い改め、神に真実に立った者でした。

 またダニエルとその友もユダ族の獅子として信仰を守りとおしました。彼らの信仰を放棄させようとする大きな誘惑の中にあっても、また火の中、獅子の穴の中に入ることになった時でも彼らは固い信仰をはたらかせ続けたのでした。
 
 わたしたちの前には何が見えますか?カナンが見えないでしょうか?しかし、そのカナンに入る前に大きな戦いがあります。もし、わたしたちが信仰の目をもってイエスを見るのなら、わたしたちは何も恐れる必要はないのです。

 残りの教会はこれから苦い体験をします。親しい人々からの裏切りや迫害を経験することでしょう。しかし、神は残りの教会は必ず勝利すると約束されました。この勝利を経験しましょう。神は必ずその約束を果たされます。最後まで服従するのなら、最後まで信仰を守り通すのなら、神はわたしたちに輝く勝利の冠を授けてくださるのです。

主が祝福してくださいまして、わたしたちがもっと、もっと信仰を働かせ、獅子のようなユダ族に似たものとなり、勝利を得て神を心から賛美する14万4千の一人となれますようにお祈りいたします。

よろしくお願いいたします。

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