22「厳粛な招待の言葉」

 エペソ教会に送られた書簡の中に「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい」という最初の厳粛な招待が与えられている。そもそも「耳のある者」という言葉は四福音書に8回、黙示録にも同様8回用いられているが、この言葉はイエスに限ってのみ用いることが出来るものであった。四福音書聖霊の指導によってイエスの言行を記録したものであるなら、黙示録の中にあるイエス・キリストの黙示も、神の導きによって記されたものである事が、自ずと判明するのである。このように聖書が神、キリストおよび聖霊の言葉であるとの証拠が沢山あるのである。
 勝利を得る者になされた約束は実に尊いものである。7節にある「神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べることをゆるそう」とは、限りない生命を与えられるということの意味である。それはかつてエデンの楽園においてその実を食べる者に永遠の命を与えていた生命の樹である。(創世記2:9参照)そして人類の祖先が罪を犯したので、神は罪を永続させないために彼等をエデンの園から追放された。(創世記3:24)生命の樹については創世記並びに黙示録に各々三回ずつ記述しているが、生命の樹は永遠の命の樹であり、唯一つしかないものである。そしてそれは楽園と共にパウロの見た第三の天にまで移されたのであって、(第二コリント12:1−4参照)地球の罪が贖われてその呪いが永遠に取り去られた時、生命の樹は再び地上に取り戻され、全ての神の民は生命の源であるその実を食す事が許されるのである。(黙示録21:1,2参照)これはすなわち「小羊の花嫁」なる「聖なる都エルサレム」が神の許を出て天より下るその時の事である。(黙示録22:9,10.ガラテヤ4:26参照)神の民でさえ「義の樹」ととなえられているのであるから、この「生命の樹」は生命の源であられるキリストを象徴するのに最も相応しいものである。キリストの言葉を心に受け入れる事はキリストを食することと同じであるが、今このようにする者はその時永遠の生命の樹の実を食することが許されるのである。またこの約束の中には宇宙が罪より清められるという約束も含まれるのである。
 読者諸君、この約束は我等の各自に与えられたものである。新天、新地においては善悪を知る樹はないのであるから、我等はアダムの失ったもの以上のものを受け継ぐのである。そこに入ることを許される者は、試みられて限りない生命にあずかる資格のある事を発見された者のみである。そうならば我等はキリストを信じる信仰とキリストの愛によって勝利者となろうではないか。勝利を得て神の園の中央にある生命の樹の実を食す事を許される者は永遠に死を味わうことはないのである。

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