「神が命じられるとおりに服従を教える」

 「わたしは主のみたまによって力に満ち、公義と勇気とに満たされ、ヤコブにそのとがを示し、イスラエルにその罪を示す。」(ミカ318)

 わたしの贖い主のみ名と力によってわたしは自分ができることを行なう。わたしは人々が聞こうと聞くまいが、あるいは耐えようが耐えまいが、神の御霊が命じられるとおりに、警告し、勧告し、譴責し、励ます。わたしの義務はわたしを喜ばせることではなく、わたしに仕事を与えておられる天父のみ旨を行なうことである。(教会への証4巻232)
 人々はキリストのみ言葉を聞くが、そのみ言葉を行う者ではない。信心深い生活の進歩的な特徴は、彼らの安逸を愛する利己的な習慣や欲望にとって快いものではない。彼らは、人の救い主の裂かれた体と流された血にあずかろうとしない。彼らは神の御子のかたちにかたどって真の高潔へと新たにされることができるように、「自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけようとしない(ガラテヤ5:24)。人々の心を試す神のみ言葉は彼らが足りない事を証明する。彼らは救い主の恵みにあずかっておらず、その救いに入る希望の基礎もない。「神からきた者は神の言葉に聞き従う」と、イエスは仰せになる(ヨハネ8:47)。律法と証を受け入れ、神の真理に同化する人々は、神性にあずかっており、キリスト・イエスにある男女の満ち満ちたすがたに成長していく。そして、真理の言葉が彼らの聖化をなしつつある。彼らは聖潔を誇って公言することなく、キリストのみ働きをなしつつ柔和でしとやかな霊を表し、しみもしわもその類のものもなく、神のみ座の前に立つ。彼らは神の戒めへの服従を通し、神の力によって、神の御子を信じる信仰によって聖化され、栄化される。(サインズ・オブ・ザ・タイムズ1888年4月13日)
 わたしの命がながらえている間は、人々が聞こうと聞くまいが、耐えようが耐えなかろうが、神の御霊によって印象づけられたとおりに、警告の声を上げることをわたしは止めないと、あなたは確信してもよい。わたし自身には特別な知恵はない。わたしはただ主がわたしにお定めになったなすべき働きをするための主のみ手にある道具にすぎない。(教会への証5巻691)


http://www.sda1888.com/
聖書のお話ブログ BIBLE STORY BLOG
http://dailydevotion.jugem.jp/?eid=126


 ブログ村ランキングに参加しております。
もしよろしかったら、クリックお願いいたします。

 ↓↓↓  

にほんブログ村 哲学・思想ブログ プロテスタントへ
にほんブログ村