IMS・セブンスデー・アドベンチストの起源と歴史

起 源


 セブンスデー・アドベンチスト教会の土台は、再臨信徒達の小さなグループによって据えられました。「キリストの聖所での奉仕」、「第七日安息日」、「健康改革」などに関する新しい光が彼らに与えられ、最終時代の必要を満たす素晴らしい真理が次第に明らかにされていきました。その基調をなす真理は、差し迫った「目に見えるキリストの再臨」でした。彼らはキリストが間もなくこの地上に来られることを固く信じ、あらゆる試練、困難、犠牲を喜んで忍耐しました。彼らは高い霊的標準を維持しましたが、それはキリストに間もなくお会いできるという生き生きとした望みによるものでした。

 この運動は成長し、進展していき、資産や信徒数も増加し、組織化されていきました。事実、この初期の再臨信徒たちは「特別な使命」をもった「特別な民」だったのです。

 しかし、キリストの再臨は遅れ、世代交代するにつれ使命の緊迫さと輝かしい望みは衰退してきました。世に次第に結びつくようになってきた教会に、神はホワイト姉妹を通して度々譴責と訓戒を与えられました。

「多くの自称クリスチャンたちと世の人々との境界線はほとんどない。以前熱心だった多くの再臨信徒たちは、世の習慣、風習、利己心に従っている。世を神の律法に導く代わりに、教会はより密接に世の罪に結びついている。教会は日毎に世俗化している。」教会への証8巻118ページ

 この勧告は神の民に送られた多くのメッセージのなかのほんの一部です。しかし、これらの警告は無視されました。1888年の世界総会で「キリストわれらの義」という特別なメッセージが与えられましたが、この尊いメッセージも一部の個々人を除いては受け入れられませんでした。このようにして聖霊の感化に屈服することを拒んだ結果、神の戒めに服従するかしないかというテストが臨んだ時、必然的に公の背教へと陥ったのでした。警告のメッセージがより具体的になった数年後に、神の民に恐ろしいテストがあることが預言されています。

 「恐ろしいテストと試練が神の民を待ち構えている。戦争の精神が地の果てからかなたまでの国民を動揺させている。しかし近づきつつある悩みの只中にあって、―かつてなかった混乱の中で―神の選ばれた民はふるわれることなく、固くたつであろう。」教会への証9巻17ページ

 1914年以来、世界は大きな危機の中にあり、これは世の終わりまで続くことでしょう。そしてこの危機の中にあっても、だれが神の民であり、またどこが神の教会であるかが常に証しされているのです。

 神の民に対する試練とテストは、しばしば国家間の戦争によって起こり、神の戒めとキリストに忠誠を尽くすかどうかが証明されるのです。

 アドベンチストはすでにこのテストに直面していました。それは南北戦争という一国のレベルにおいてでした。その時、忠実な人々は戒めの第4条と第6条においてどんな立場をとるべきかを選ばなければなりませんでした。幸いなことに当時のアドベンチストはこの最初のテストを神の守りの下に適切に通り抜けることができました。
 
 ジェームス・ホワイトは「国民」という題のもと、奴隷制度廃止を助けるため、軍に参加することを弁護しましたが、後に神は教会がとるべき正しい立場に関してホワイト姉妹によって、明確な理念が与えられました。

 「神の特別な宝となる神の民は、信仰のあらゆる原則に逆らう複雑な戦争に加わることはできないことを私は示された。軍にあっては、真理に従いながら、上司の命令に従うことは不可能であり、良心に背き続けることになるであろう。世俗は世俗の原則によって支配されるため、戦争を正しく評価することはできない。世俗の政策と世論が彼らの行動の原則であるため、もっともらしい行動をとっているかのように導く。しかし、神の民はこのような動機に支配されることはできない。彼らの心に書かれている神の言葉と命令は、霊であり、命であって、それには彼らを屈服させ、服従させる力がある。エホバの十戒はすべての義と善の律法の基礎であり、神の戒めを愛する者は地のすべての良い法律に従う。しかし、統治者の要求が神の律法に反するなら、唯一なされるべき質問は神に従うべきか、それとも人に従うべきかである。」教会への証1巻361ページ

 南北戦争当時アメリカ政府はセブンスデー・アドベンチストに対し三つの選択肢を与えました。それは・・・

1.病院での奉仕
2.自由民(奴隷の身分から解放された人々)の世話
3.300ドルの代替金

 1864年8月2日、セブンスデー・アドベンチスト世界総会執行部は「原則の声明」をミシガン州知事に提出しています。

 「セブンスデー・アドベンチスト教団は、戦争の概念と共にそれに参加することは、聖書の教える信仰と行動の原則に明白に反するという立場をとるものである。それゆえに、私たちは、良心的に武器を取ることに反対してきた。聖書の中で私達の信条としてなによりも重んじているものは、神から与えられた最高の律法である十戒であり、この戒めの一つ一つは、最も明白で、また文字通りの意味を持つものとして取り扱っているのである。これらの戒めの第4条は、主の第七日に何のわざをもしてはならないことを要求しており、また第6条は命をとることを禁止している。そして兵役の義務を行っている間は、これらの戒めを守ることはできないと私達は考えている。私達の慣習は、これらの原則と一致してきた。それゆえに私達の民は兵役に参加することを願わないのである。私達の教団の出版物も何一つ、武器を取ることを擁護したり、奨励したりすることはしないし、徴兵されるとき、私達は原則を犯すより、むしろ300ドルの代替金を払うことで満足するのである。これが普遍的な規定として残るものであり、この提示した問題に対して他の公式な見解はない。」(In time of War,p58)

 南北戦争の間、このような立場は「非戦闘員」と呼ばれていました。しかしこの後、この言葉の意味は数回変わっていくのです。今日、非戦闘員とは、「軍隊の中において武器を持たないこと以外のすべての義務を行う人々」を指しています。しかし、当初この言葉は、「どのような軍の関係機関であっても、軍隊に入ることを拒否すること」を意味していました。私達はこれを「戦闘と兵役に付随するいかなるものにたいしても良心的に反対する」ことと解釈しています。SDAの先駆者たちもこの意味で理解し、この原則を維持し、1865年にこの宣言を繰り返しています。もちろん政府は神によって任命されるのですから、国によって秩序と正義が保持されるということを認めます。ですから、神の民も平和な生活をすることができるのです。また私達は新約聖書で命令されているように、国家権力に対して尊敬と感謝を示し、正義によって守られることを認めています。しかしながら、聖書に示されているように、カエザルの支配に心から屈服する一方、戦争における行為と流血に参加することを強制される時、それは拒否されるべきなのです。

 しかし、第一次世界大戦時、この事に忠実であったヨーロッパの様々な国々の信徒たちは、SDA教会から除名され、迫害を受けました。SDA世界総会はヨーロッパの指導者たちの背信に賛成し、その原則を変更しました。1865年に採択された「戦闘と流血行為への不参加」は拡大解釈されたのです。

 「私達の信仰の確信が、当局によって認められることを要求する。であるがゆえに、私達がこの立場で、国へ仕えることを要求され、そしてそれに応じることは神の戒めへの故意の不服従ではなく、キリストの生涯に例証され、その教えをもって説明された十戒の中に表れているのである。」(セブンスデー・アドベンチストと政府 11p appear)

 今日、SDA教会はその教会員たちにそれぞれの良心に従って、戦闘行為においてさえも、進んで国に仕えるようにと言っています。この宣言は1865年に採択された「すべての戦闘行為に関与することへの拒否」と全く異なっているものなのです。

 1918年、戦争の恐怖が収まった後、様々な国々においてSDAから除名された人々が連絡をとりあいました。1919年にこれらの改革者たちは、本来のアドベンチストの標準を守り、教えるために組織しました。この組織の目的は、教団指導者層と話し合い、彼らの誤りを正すためであって、彼らを妨害するためのものではありませんでした。

 1920年にドイツのフリーデンソーにおいてSDAの責任者たちと除名された人々の話し合いが持たれ、1922年カリフォルニアで開催されるSDA世界総会会議において、改革者たちの請願を聞いてもらえることになりました。しかし、恐るべき過ちを正そうとしたすべての努力は無駄になってしまいました。1922年のSDA世界総会会議において、SDAの指導者層は改革者たちを門前払いにしました。彼らは戦争時、命をかけて神の戒めを守った人々たちの懇請を拒否したのでした。

 1925年改革運動はアドベンチスト本来の教理を包含した「信仰の原則」を作成しました。1915年に亡くなった神の僕(ホワイト姉妹)の勧告と警告が公に踏みつけられ、捨てられた時、預言された改革はここに成就したのです。この改革者たちの教会こそが最後の「残りの教会」です。なぜならこの教会は、神の戒めを守り、あかしに服従するからです。唯一の安全は神の指標の中にあります。「ただ律法(おきて)と證詞(あかし)とを求むべし彼(かれ)等(ら)のいふところ此(この)言(ことば)にかなはずば晨光(しののめ)あらじ。」(イザヤ8:20・文語訳)

 第二次世界大戦によって同じテストがアドベンチストに繰り返されました。しかし、その結果はさらに悪いものとなりました。今日世界中のアドベンチストたちに教団が提言していることは、「我々は、どんな時、どんな場所であっても、その個人的な良心の確信の命じることにしたがって、その国に仕える完全な自由を教会員たちに認める」であります。

 1934年5月SDA教団世界総会はこの原則を以前と同様、繰り返しています。「教会はその教会員たちに個人的な命令をくだしてはならない。人はそれぞれの確信によって選択すべきである」。改革者として、私達はこの僭越(アドベンチストの指導者たちがその教会員たちに神の戒めを犯す自由を与えたこと)に抗議するものです。

 「かりに人が主のご要求を離れて、自分で義務の標準を立てる自由があるとすると、人それぞれに合うさまざまの標準ができることとなり、支配権は主のみ手から奪われてしまうことになる。人間の意志が最高権威とされ、高く聖なる神のみ旨―神の被造物に対する愛の目的―は尊ばれず、軽んじられることであろう。
 人々が自分たちの道を選ぶ時はいつでも、神に敵対することになる。彼らは天の原則と戦っているのであるから、天のみ国に入ることはできない。彼らは、神のみこころを無視して、自分たちを、神と人との敵であるサタンの側に置いているのである。」祝福の山64、65ページ

 私達は霊感の言葉や、神がその民に与えられた尊い光に調和しない過ち、怠慢や公の反逆に対して抗議しなければなりません。

 しかし、この抗議は「あなた方よりも私たちが清い」ということを示すためのものではありません。私たちも他と同様に、救い主イエス・キリストの義を切に必要とする者たちだからです。

 キリストは真理を保管する一つの民をこの世に持っておられます。もし、アドベンチストがこの尊い光をおぼろげにし、消してしまうならどんなことが起きるでしょうか。

 誠実なアドベンチストたちは教会の中で改革が必要なことを認めはしますが、分離することは認めたくありません。もし、教会が神から与えられた使命を捨て去っていないのなら、その教会から分離してはならないし、教会の中での改革も可能です。しかし、もしそうでないのなら、真理を保管している教会へと分離しなければなりません。歴史は繰り返されます。ユダヤ教会、カトリック教会、そうしてプロテスタント教会がキリストとその使命者たち、またその真理を拒否したためにどのようになったのかを考えてみなければなりません。もちろん神はすべての民を愛されます。しかし、神はこの世にあって、一つの民を神の律法の保管者として選ばれました。神は人がキリストの恵みによって、神の律法に服従することを命令なさいます。それは私達がキリストのような品性を持つためであります。ですから公に律法を犯し悔い改めない民を、神は最後の使命を世に伝える器としてこれ以上用いることはおできにならないのです。


預言の霊の次の証をお読み下さい


 「キリストの時代に人類の光と生命が、教会当局によって拒否されたように、それはつづく各時代においても拒否された。キリストがユダヤからしりぞかれた歴史は、幾度もくりかえされた。宗教改革者たちが神のみことばを説いた時、彼らは、国教会から分離する考えはなかった。しかし宗教界の指導者たちが、光に対して寛容な態度を示そうとしなかったので、光を持った人たちは、真理にあこがれている他の階級の人たちをさがさねばならなかった。今日宗教改革者たちに従う者であることを自称している人々の中には、彼らの精神に生きている者が少ない。神のみ声をもとめて耳をかたむけ、真理がどんな形で示されようと、それを受け入れる用意のできている人は少ない。宗教改革者たちの足跡に従う者たちは、神のみことばのはっきりした教えを宣言するために、愛する教会から離れなければならない場合がたびたびある。また光を求めている人たちは、神に服従するために、この同じ教えによってやむなく父祖たちの教会から離れなければならないことが幾度もある。」各時代の希望上巻285ページ


 アドベンチスト教団の指導者たちは、「1914年から起きた改革運動は偽の預言によるものであり、軍務を拒否したために除名された者は一人もいなかった・・・」と宣言しています。しかし、SDA教団が現代の真理の確かな土台から離れ、忠実な信徒たちを除名したためにこの運動が起きたのは既成の事実なのです。

 ですから、必要不可欠とされていた改革はカトリックにおける改革と同様、アドベンチストの内部で起き、その改革は内部で終わることはできませんでした。

 私たちは第三天使の使命を信じ、真理に従いたいと望む再臨信徒たちを捜し求めています。

 神は一つの民、一つの教会をもっています。そこでは神の御霊によって再臨信徒たちに与えられた純粋な真理(SDAの先駆者たちによって据えられた土台)を味わい喜ぶことができます。この教会にあなたも参加し、神の与えてくださった真の愛と義の道を共に歩んでいきませんか?

 もしあなたが、わたしたちの教会についてもっと知りたいとお思いでしたら、どうぞ私たちに御連絡下さい。


歴 史                                                 

―再臨の前兆―

 「日は暗くなり、月はその光を放つことをやめ、星は空から落ち、天体は揺り動かされるであろう。そのとき、大いなる力と栄光とをもって、人の子が雲に乗って来るのを、人々は見るであろう」(マルコ 13:24〜26)。 

 「黙示録の記者も、再臨に先だつ第一のしるしをこのように描写している。『大地震が起こって、太陽は毛織の荒布のように黒くなり、月は全面、血のようにな』った。(黙示録 6: 1 2 )」各時代の大争闘上巻391ページ


1755年―リスボンの大地震


 「人々の恐怖は、言葉では表現できないほどだった。だれも泣かなかった。泣くどころではなかった。彼らは恐怖と驚きに狂乱状態となって、あちこち走りまわり、顔や胸を打って、『あわれみたまえ!世の終わりだ!』と叫んでいた。母親は子供たちを忘れて、十字架の像を背負って走り回った。多くの者が教会に避難したことが悲惨を招いた。聖体を取り出してもむだであった。哀れにも人々は祭壇にしがみついたが、むだであった。聖画像も司祭も人々も、もろともに埋没してしまった。」この恐るべき日に生命を失った人の数は、9万と推定されている。」各時代の大争闘上巻394ページ
                      

1780年―暗黒日


 「この種の現象として、他に類例がなく、最も不思議で説明することができないものは・・・・1780年5月19日の暗黒日である。これは、ニュー・イングランド地方の空全体をおおった不可解な暗黒である。・・・モーセの時代以来、これほどの濃さと広さと時間的長さをもった暗黒は、記録されていない。目撃者によるこの事件の描写は、その成就の2500年前の預言者ヨエルが記録した主の言葉のくり返しに過ぎない。「主の大いなる恐るべき日が来る前に、日は暗く、月は血に変わる」(ヨエル2:31 )。」各時代の大争闘上巻393、394ページ
                          

1831年―ウイリアム・ミラー、再臨メッセージを公に伝え始める。


「聖書の権威に疑惑を抱きながらも、なお真理を知りたいと心から望んでいた、高潔で誠実な一農夫が、キリスト再臨の宣布において指導的な役割を果たすために、神によって特に選ばれた。」各時代の大争闘下巻1ページ


1833年―大落星―「星は空から落ち」る(マタイ24:29)との預言の成就。ウイリアム・ミラー、彼の属するバプテスト教会から説教する許可を得る。

1844年(3月)―再臨信徒、最初の失望―

1844年(7月)―第二天使の使命・夜中の叫び。
「約5万人が教会から離脱する。」
 
1844年(10月22日)ー第三天使の使命、調査審判の開始。12月―エレン・ハーモン、最初の幻を受ける。

1861〜65年―南北戦争

「聖書を信仰と実践の原則とする、セブンスデー・アドベンチストの名を持つクリスチャンの教団として、私たちの教えは、戦争の精神とまたそれに参加することに反対することを明らにする。・・・戒めの第四条は、主の第七日目に何のわざをもしてはならないことを要求し、また第六条は命を奪うことを禁止している。そして兵役の義務を行っている間は、これらの戒めを守ることはできないと私たちは考える。わたしたちは、これらの原則と一致してきたのである。それゆえに、私たちの民は兵役に参加することを願わないのである。私たちの教団の出版物も一つとして武器を取ることを擁護したり、奨励したりはしない。徴兵されるとき、原則を犯すよりも300ドルの罰金を払うことに満足するものである。」(1864年8月3日、John Byington, J.N.Loughborough, Geo.W.Amandon,(Signed),General Conferenced Committee)

 「神の特別な宝となる民は、信仰のあらゆる原則に逆らう複雑な戦争に加わることができないことを私は示された。軍にあっては、真理に従うと同時に上司の命令に従うことはできない。」教会への証1巻361ページ


1863年 世界総会組織―信徒3,500名。初代総理、ジョン・バイトン。

1888年―ミネアポリス世界総会―「キリストわれらの義」、「黙示録18章の使命」開始。


 「主はその大いなるあわれみをもって、ワゴナー長老とジョーンズ長老を通して、きわめて尊い使命をその民に与えられた。この使命は、全世界の罪の犠牲であられる高められた救い主を世界にもっとはっきり紹介するものであった。それは保証人であられるキリストを信じる信仰を通しての義を提示し、神のすべての律法への服従の中に明示されているキリストの義を受け入れるように人々に勧めた。」ー牧師への証91、92ページ

しかし、この使命は拒否された。

1892年の証―

 「わたしは、ジョーンズとワゴナーヨシュアとカレブと同様の立場に立っているのを見た。イスラエルの子らが実際に石で斥候たちを打ったように、あなたがたは皮肉と嘲りの石でこの兄弟たちを打ったのである。わたしは、あなたがたが真理であると知っていながら、故意にそれを拒んだのを見たが、それはあなたがたにとってあまりにも屈辱的であったので権威を保つことができなかったからである。わたしはあなたがたの中のある人々が、テントの中でこの二人の兄弟の真似をし、あらゆる方法で嘲っているのを見た。もしあなたがたがこのメッセージを受け入れていれば、わたしたちは、その日から2年後には、天国に入っていたはずであることを見た。しかし、わたしたちは今、荒野にもどって、40年の間とどまらねばならない。」(1892年5月9日、E.G.ホワイト、メルボルン

1900年の証―

 「ユダヤ人は天から与えられた救いのメッセージを拒絶したので滅ぼされた。今の世代の人々も神から驚くべき光と特権が与えられたにもかかわらず、光を拒むことによって滅ぼされた人々の道に従うのだろうか。」教会への証6巻146ページ

1902年―2月18日バトルクリーク・サニタリウム、12月30日レビュー社の大火


1903年の証―

 「表面は義の衣のようであっても、その裏には腐敗があった。品性は、暗くされた。忠実な町がどうして淫婦のようになったのか。わが父の家は商品を売り買いする所と化した。神の臨在と栄光とは去った。そのために力を失ったのだ。」教会への証8巻249,250ページ

1907年―ケロッグ博士の背信

1909年の証―「1909年の総会を通して、出席者の心に成し遂げられていない一つの働きが成し遂げられるべきであった。・・・決定的な改革のためにこのような好機が与えられたにもかかわらず、罪の告白と心からの悔い改めの働きは成し遂げられなかった。」セレクテッド・メッセージ2巻400,401ページ

1914年―第一次世界大戦開始

「サタンは戦争を喜ぶ。なぜなら戦争は、魂の最悪の激情をかきたて、悪と流血に染まった犠牲者たちを永遠に葬り去ってしまうからである。国々が互いに戦争を起こすように煽動するのがサタンの目的である。なぜなら、そうすることによって人々の心を、神の日に立つ備えの働きからそらすことができるからである。」各時代の大争闘下巻351ページ

―この時SDAはアメリカ独立戦争時の「非戦闘員」としての立場を変更した。

「・・・私たちはキリストに従う者として、神の力によってこのような時期に国家のために真実で忠実に私たちの兵役に服務しなければならない。・・・軍の服務に召集される時も喜んで兵役の義務を果たさなければならない。私たちの運命は神のみ手のうちにある。私たちが戦闘中に自分の命を失っても、私たちの命はキリストと共に神のうちに隠されていることを覚えるように。・・・・」―G.Dail ヨーロッパ支部書記(サイン)1914年8月2日

―しかし、1888年の「キリストわれらの義」を信じ、神の戒めに忠実な人々がいた。

「戦争が始まった時、SDAの教会は二つの異なった見解によって対立した。98%の信者たちは自ら聖書を調べ、武器をとって祖国を守るために良心的に参戦すべきだと信じ、また、安息日も国家の命令に従うべきであるとの結論を出し、ドイツの軍務大臣にその旨を報告した。その決定に従わなかった2%の信徒たちは、非キリスト教的であるとして、教会から除名された。・・・・」ドイツ紙(Dresdner Neueste Nachrichten, April 2,1918)

「1914年2%の信徒たちは、戦争に参加することと、また安息日の問題が、SDA教会の教理と合わないことを宣言したので、ドイツのSDA教会から除名された。」カトリック紙―(Paulinus,3月9日)

ヨーロッパ各国のSDAの指導者たちは、信徒が戦争に参加することを奨励した。そうして、「1888年の使命」を信じ、キリストを自分の義としてすべての戒めに服従しようとした信徒たちをSDA教会は除名し、迫害した。その結果多くの信徒たちが投獄され、国によって処刑された。

当時の世界総会総理、A.G.ダニエルスの宣言文。

「・・・私たちの立場は各自が良心に従って決定すべきである。・・・私たちは戦争が起こることを残念に思い、戦争に反対する。しかし、私たちは各自が自分の良心に従って政府当局に対して自分の立場を決定しなければならない。・・・」
(Report of the meeting with the opposition movement (July 21-23, 1920),pp 37-39)

 「各自の良心の問題」これこそが、SDA世界総会が戦争の問題に対してとった態度であった。しかし、私たちの良心が「神の律法」に固くつながれていないのなら、私たちはその良心に従うことによって罪を犯すことになる。教会の心臓部である世界総会がこのようなあいまいな態度をとることによって、神の民が神にたいして罪を犯すことを是認したので、教団そのものがその罪の責任を負わなければならなくなった。

女の残りの子、最後の教会の特徴は、「神の戒めを守り、イエスの証をもっている者たち」(黙示録12:17)である。

「・・・・しかし、主は部分的服従を喜ばれず、もっともらしい動機によって彼がおろそかにしたことを、不問に付されないのである。神は、人間が神の要求にそむく自由を与えておられない。主は、イスラエルに言われた。「めいめいで正しいと思うようにふるまってはならない。・・・・あなたはわたしが命じるこれらの事を、ことごとく聞いて守らなければならない」(申命記12:8,28)。どんな行為の決定に当たっても、われわれは、その結果が有害かどうかではなくて、それが神のみこころにかなっているかどうかをたずねなければならない。「人が見て自ら正しいとする道でも、その終りはついに死に至る道となるものがある。(箴言14:12)」人類のあけぼの下巻306ページ

1915年―E.G.ホワイト死去

1920年―フリーデンソー会議

ドイツ、フリーデンソーのSDA神学校において、SDA指導者層と戦争に反対したために除名された人々の話し合いが持たれたが、物別れに終わる。1922年に開催される世界総会において再度話し合いを持つことを約束する。

1922年―世界総会(サンフランシスコ)
除名された人々が再度話し合いを求めるが、門前払いされる。この時アメリカで出版されていた証の書をすべて持ち帰り、自分たちの置かれた立場を研究する。

1925年(7月14日〜20日)
ドイツ、ゴタにおいて、戦争に反対したために除名された人々が集まり、組織が結成され、信仰の原則が公式に採択される。

1929年(1月11日)
ドイツのイゼルンハーグンにおいて「IMS・SDA・RM」(国際宣教協会セブンスデー・アドベンチスト改革運動)の名で登録、許可おりる。(申請は1928年)

1936年(5月11日)
ヒットラーの秘密警察によって、ドイツ政府は、「IMS・SDA・RM」に属するすべての財産を没収し、組織は解散させられる。この時、SDA教会員の密告によって、IMSの多くの指導者、青年たちが強制収容所に送られ、殺された。

1939年〜1945年―第二次世界大戦
SDA教団はこの時も第一次世界大戦の過ちを繰り返した。
各国でSDAの信徒たちは、戦争に参加し、SDA世界総会はこれを是認した。

「かりに人が主のご要求を離れて、自分で義務の標準を立てる自由があるとすると、人それぞれに合うさまざまの標準ができることとなり、支配権は主のみ手から奪われてしまうことになる。人間の意志が最高権威とされ、高く聖なる神のみ旨―神の被造物に対する愛の目的―は尊ばれず、軽んじられることであろう。
人々が自分たちの道を選ぶ時はいつでも、神に敵対することになる。彼らは天の原則と戦っているのであるから、天のみ国に入ることはできない。彼らは、神のみこころを無視して、自分たちを、神と人との敵であるサタンの側に置いているのである。」祝福の山64ページ

1948年
「IMS・SDA改革運動」オランダ、ヘーグの総会において、本部をアメリカにおくことを決定する。

1949年
アメリカに本部を登記するが、この時、当時の秘書、ドミトル・ニコリッチルーマニア生まれ)は、独断で、「IMS」という名称を除き、「SDA改革運動」という名称で登記する。また、※「委任投票制度が認められる」という文面も同じように独断で登記する。

1951年―オランダで改革運動の世界総会開催
ドミトル・ニコリッチが、正当な手続きに異議をとなえ、10人の代表者たちと共にその会議を放棄した。この11人は、1949年のアメリカでの登記を自分たちのものとし、IMSから分離した。この時、分離した彼らはニコリッチを総理として選んだ。残った14人の代表者たちは、コーゼルを総理として選び、引き続き「IMS・SDA改革運動」の名で活動をする。(この事件に関しては、公式な議事録と当時の目撃者たちの証言が残っている。)
(現在「IMS・SDA改革運動」は、アメリカ、ジョージア州に本部を置き、分離した「SDA改革運動」は、アメリカ、バージニア州に本部を置く。)

※現代、この二つの組織における、教理的な違いとして、「SDA改革運動」(分離した側)は、「後の雨」が「日曜休業令」の前に降ると教え、「IMS・SDA改革運動」は、「日曜休業令」の後に「後の雨」が降るというSDA本来の教理を信じ、教えている。

※ 委任投票制度とは、いろいろな事情のために世界総会会議に出席できない代表者が自分の投票権利を出席できる代表者に委託する制度。

※「IMS・SDA改革運動」は、SDAの先駆者たちが信じ、確立した「教団の信仰」(初代文集「堅固な土台」)を、今も尚、保持し教える唯一のキリスト教会の教団である。現在約130カ国以上に教会を持ち、約3万5千人以上の教会員がいる。

※「IMS・SDA改革運動」という名称について。
1919年当時、ドイツSDA教会の中に「International Missionary and Tract Society of the Seventh-day Adventist Church 」という組織があり、そのメンバーたちの中に戦争に反対した人たちが多かったので、「International Missionary Society of Seventh-day Adventist old movement standing firm since 1844」という名が元となり「International Missionary Society of Seventh-day Adventist Reform movement 」(IMS SDA改革運動)という名称が採用されるにいたった。


世界大戦時に神の律法を守ったために殉教していった兄弟たち


Guenther Pietz 


 安息日の労働と従軍拒否のためにヒムラ―(※)の命令によって、19歳の時に処刑される。処刑の直前、彼は2通の手紙を彼の両親に書いている。以下は1843年8月15日付の手紙の一部である。「・・・親愛なるお父さん、お母さん、どうぞ私のために一粒の涙も流さないでください。信仰と希望と愛のゆえに…これは私が家を出る時に所持していたもので、今も持っているものです。死刑に処せられるからといって、私は自分自身を悲観的な思いにしておくことを許しません。なぜなら、主が私の内に御臨在してくださることを知っているからです。この最期の時にあって、私はこのような心の平安と休息をこれまで得たことがありません。・・・」



Gottlieb Metzner 


 真理に忠実であったために彼の就学年齢に達していた四人の子供たちが4年間州当局によって連れ去られた。1945年3人の娘は家に戻されたが、一人息子は戻されることはなかった。1944年メッツナー兄弟は半年にわたって、エスターウェージェン強制収容所にて迫害に耐えたが、釈放後、10月19日再び秘密警察によって収監され処刑された。



Gustav Psyrembel 


 この兄弟はドイツ軍事裁判によって処刑された。理由は従軍拒否とドイツ国旗に対する忠誠の宣誓と敬礼を拒否したためである。1940年3月29日、彼は妻と子供たちに宛てて次の励ましの言葉を残している。「主を賛美し感謝します。彼は私の霊と肉を健全に保って下さり、喜びと豊かな愛を満たして下さっています。最後の時にも、彼は私を見捨てられることはないでしょう。主のために苦しみ、死ぬのですから、特権とみなします。これは私にとって、悲しみではなく名誉なことです。」



Anton Brugger 

 1911年4月9日、オーストリア、カプラム(ザルツバーグ)生まれ。1943年、軍務拒否のためドイツにて帝国軍事部によって処刑される。
 ここにブルガー兄弟が母親に宛てた手紙の一部がある。「もし私が欲したとしても、私は国旗に宣誓することなどできません。何故なら手に武器を取ることを己の義務とさせるような、私のクリスチャンとしての信仰の確信を放棄させる行為を私は許すことができないからです。私はバプテスマの時、既に主に誓いを立てていたので、無制限に世の権力に忠誠を誓うことはできません。私は主と契約し、人生におけるどんな困難な時にも、いかなる状況下にあっても彼に従い、彼の戒めに忠誠を尽くす約束をしたのです。どんな試練の状況、たとえ死ぬことになっても、忠実であるか、或いは、安易な側を選んで不忠実な者となるか、この二つの選択肢があります。私は神に忠実であることを選びます。私は、キリストが私のために犠牲となり私を召してくださったので、永遠の命を与えて下さると信じます。」



Stanislav Rohlof   
  

 ルフロフ兄弟はポーランド教会の総理であった。彼は善良な市民として知られ、洋服の商売をしていた。1944年彼は秘密警察によって逮捕され、マウサウセン強制収容所に移送され処刑された。



Johann Hanselmann 


 1937年10月2日、彼は州秘密警察に次のような告発で逮捕された。「彼はSDA改革運動という宗派公認の牧師である。この宗派は1936年4月29日秘密警察の副所長の命令によってレイチのすべての地域において禁止されたものである。イザンハーゲンに本部があるこの宗派は、1914年SDAが彼らの信仰の原則に反して、信徒たちを従軍させることを許したために、分離した。これら改革運動の主張は、アドベンチストの指導者はこのような許可を信徒たちに与える権限はないということであった。」And Follow Their Faith, compiled by Hans Fleschutz,p.21.


Alfred Muench 


この兄弟の妻は次のように書き残している。「1939年初頭、夫に召集令状が届いた時、その戦いは再開しました。彼は6通もの召集令状を受けていましたが、それをすべて無視していたのです。1940年、彼は再逮捕されました。その逮捕の理由はヒトラーの挨拶に参加しなかったというものでした。2ヶ月にわたる審理の後、彼はデーチャウにある強制収容所に送られました。しかし、彼はいつも勇敢でした。1948年、最後まで彼と一緒だったという一人の男性から、彼が餓死したということを知らされました。」(And Follow Their Faith,35,36)



Thomas Slachetka 


 1944年この兄弟は安息日に働くことを拒否したためにゲシュタボにおいて拷問を受け、逮捕された。彼がどんなことをされたのかが以下の文書に記録されている。「有刺鉄線が巻かれたかごが彼の上に置かれ、彼はこのかごの下で裸の状態で屈まなければならなかった。他の囚人たちはこのかごの上を飛び越えなければならなか
ったが、それができたのはほんの数人だけであった。」(And Follow Their Faith,24) 
この出来事の直後、彼はグロスローゼン強制収容所に連れて行かれ、51歳で死ぬまで残酷な拷問を受けた。


※ハインリヒ・ルイトポルトヒムラー
(Heinrich Luitpold Himmler, 1900年10月7日〜1945年5月23日)
「ドイツの政治家。ナチスの親衛隊(SS)の第4代親衛隊全国指導者。ナチスの政権掌握後、全ドイツ警察長官やヒトラー内閣内務大臣等を歴任し、ドイツの警察権力を掌握した。第二次世界大戦中にはヨーロッパのユダヤ人に対してホロコーストを組織的に実行した。ホロコーストで殺害されたとされる600万のユダヤ人をはじめとして、ロマ・ポーランド人・カトリック聖職者・ロシア人捕虜・エホバの証人・障害者・同性愛者など、諸々の虐殺に対し責任を負う。第二次世界大戦終戦時にアメリカ合衆国との講和交渉を試みたが失敗し、捕虜になった後に自殺している。」出典:フリー百科事典「ウィキペディア


IMS・SDA改革運動教会 日本ミッション
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