「魂に命を与える」

  「わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう。」(ヨハネ4:14)

 この世の泉でかわきをいやそうとする者は、飲んでもすぐにまたかわくだけである。どこでも人々は満足していない。彼らは魂の必要を満たすものを求めている。その足りないところを満たすことのできるおかたはひとりしかない。世の必要、「万国の願うところのもの」はキリストである(ハガイ書2:7文語訳)。キリストだけがお与えになれる神の恵みこそ、魂をきよめ、清新にし、活気づける生ける水である。
 イエスは、一杯のいのちの水を受けるだけで十分であるという意味のことは言われなかった。キリストの愛を味わう者はたえずもっと求める。だがそれ以外のものは何も求めない。彼には世の富も栄えも楽しみも、魅力がない。彼の心は、『もっとあなたを』とたえず叫びつづける。魂に必要をお示しになるおかたが、その飢えとかわきを満たそうと待っておられる。人間的な手段や人間にたよるときにみな失敗する。水槽はからになり、水たまりはかわく。だがあがない主は尽きない泉である。飲んでも飲んでも新しい水がいつでもわいている。キリストを内住させている人は、自分のうちに祝福の泉……を持っている。この泉から、彼は自分のすべての必要を満たすのに十分な力と恵みとをくむことができる。(各時代の希望上巻221)
 生ける水を飲む者はいのちの泉となる。受ける者が与える者となる。魂のうちにあるキリストの恵みは、砂漠の中の泉のようなもので、それはわきあがってすべての人を元気づけ、いまにも死にそうになっている人々にいのちの水を飲みたいと熱望させるのである。(同上234)
 キリストが言われた水は、み言葉に記されたこのお方の恵みの啓示であった。……み言葉の中にあるキリストの恵み深い存在は、生ける水をもって渇いている者を活気づける井戸として表現され、わたしたちの魂に絶えず語りかけている。共に宿られる生ける救い主が与えられていることは、わたしたちの特権である。このお方こそが、わたしたちの内に秘められた霊的力の根源であり、その影響はわたしたちの言動に流れ出て、わたしたちが影響を与えるすべての人に、力と純潔、高潔さと平安、そして悲しみを伴わない喜びに対する渇望を生じさせ、活気づける。これが、救い主が内住される結果である。(SDAバイブル・コメンタリー5巻1134)

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